ここ最近、耳にするだけで少し心がざわつくような言葉を、ニュースや画面の向こうで見かけることが増えました。「永久下級市民(パーマネント・アンダークラス)」や「無用者階級」。AIの技術がこのまま進化を続ければ、私たちの大半は社会から必要とされなくなり、二度と這い上がれない場所に取り残されてしまうのではないか。そんな見えない不安が、特にこれからの時代を生きる若い世代の心に、そっと影を落としています。
いったい、こうした言葉はどこからやってきて、なぜ私たちの心をこれほどまでに急き立てるのでしょうか。
もともと「アンダークラス」という言葉は、AIの脅威を語るためのものではありませんでした。1980年代のアメリカで、ジャーナリストのケン・アウレッタが著書『The Underclass』のなかで用いたのがひとつの契機となり、社会の構造的な問題によって貧困から抜け出せなくなった人々を見つめるための、社会学の言葉として使われてきたのです。それがテクノロジーと結びついた背景には、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』のなかで記した、ひとつの見立てがありました。彼は、もし意識を持たないアルゴリズムが人間の能力を上回ったなら、多くの人は経済的にも軍事的に意味を持たない「無用者階級」になってしまうかもしれないと警告したのです。それは決して「そうなることが決まっている」という予言ではなく、「そうならないように私たちが選択していかなければならない」という、人文学からの切実な問いかけでした。
ところが、その問いかけは少しずつ形を変えていきます。2020年代に入り、AI開発の最前線にいる人々の間で、「このまま進化が進めば、ごく一部の人間だけが富を独占し、乗り遅れた者は『永久下級市民』になってしまう」という悲観的な見方が広まり始めました。元OpenAIの研究者であったレオポルド・アッシェンブレンナーらが示した、あまりにも速い技術の進化予測などを発端として、シリコンバレーの内部で生まれた焦燥感は、メディアを通じて瞬く間に世界中の不安へと変わっていきました。2026年には、ニューヨーク・タイムズ紙のオピニオン記事などで、このシリコンバレーのパニックが決定的なバズワードとして報じられます。「今すぐAIを使いこなす側に回らなければ、取り返しのつかないことになる」。そうやって、ひとつの未来予測が、私たちの生き方を縛り、焦りを生むような強い言葉へと変わってしまったのです。

しかし、立ち止まって考えてみたいのです。私たちは本当に「無用」になってしまうのでしょうか。
政治哲学者のハンナ・アーレントは、1958年に記した『人間の条件』のなかで、人間の営みを三つに分けて考えました。日々の命をつなぐための「労働」。世界に長く残るものを作る「仕事」。そして、他者と交わりながら新しい価値や始まりを生み出す「活動」です。もし、AIという新しい道具が、私たちが日々繰り返してきた「労働」の一部を担ってくれるようになるのだとしたら。それは私たちが無価値になるということではなく、むしろ、人間本来の喜びである「活動」へと向かうための、新しい余白が生まれるということではないでしょうか。
誰かが描いた「世界がいずれ劇的に終わる(あるいは自分たちの居場所がなくなる)」といったような、終末論的なシナリオに、私たちの生きる喜びやウェルビーイングを明け渡す必要はありません。
日本には古くから、すべてが一度に終わってしまうのではなく、破壊と創造を繰り返しながら絶えず移り変わっていく「連続性」の感覚がありました。そして、無機質な道具のなかにも魂や気配を見出し、それらと親密に関わりながら新しいものを生み出す「産霊(むすび)」という豊かな知恵が息づいています。
この連載では、そうした日本的な感覚をそっと手がかりにしながら、テクノロジーという新しい道具と私たちが、どうすれば無理なく、健やかに、そして心地よく関わっていけるのかを、ゆっくりと考えてみたいと思います。不安を煽る言葉から距離を置き、終わらないこの世界を共に耕していくための、静かな準備をここから始めましょう。
終末論のない世界——日本神話が教える「終わりなき更新」のリアリズム
シリコンバレーが描く「永久下級市民」という少し怖い未来のシナリオ。それを見つめ直すとき、私たちはAIの計算能力の凄まじさや経済の数字に圧倒される前に、彼らが無意識のうちに持っている「時間感覚」そのものに、そっと目を向けてみる必要があるのかもしれません。
彼らが語るシンギュラリティ(技術的特異点)や、ある日突然、完璧なAI(AGI)が降臨して人間の歴史がガラリと変わってしまうというお話。それはどこか、キリスト教の「最後の審判」に代表されるような、西洋の直線的で劇的な終末論が、形を変えてテクノロジーの服を着たもののように見えてきます。哲学者カール・レーヴィットは、その著書『歴史の意味』のなかで、西洋的な歴史の捉え方をこのように説明しています。
歴史についてのキリスト教的解釈は、一つの普遍的な最終目標へと向かう、一連の不可逆的な出来事の、直線的な進行という見解に立脚している。
——カール・レーヴィット『歴史の意味:歴史哲学の精神的背景』柴田平三郎訳, 晃洋書房, 1996年より要約
「世界はいずれ劇的な幕引きを迎え、歴史は完結する」という前提が心のどこかにあるからこそ、「どうせ努力しても無駄だ、最後はAIにすべてを裁かれるのだから」という深い無力感に、私たちは囚われやすくなってしまうのではないでしょうか。しかし、私たちの足元にある伝統的な世界観、とりわけ『古事記』などの神話に流れる時間感覚には、このような世界の終わり(終末譚)はどこにも描かれていません。

日本神話が教えてくれるのは、劇的な破滅ではなく、生と死、破壊と創造が永遠に拮抗し、複雑に絡み合いながら続いていく「終わりのない連続性」の世界です。その象徴的なエピソードが、黄泉の国における伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)の決別の場面です。『古事記』の記述を紐解くと、そこには次のような生々しくも力強い言葉の応酬が記録されています。
「愛しき我が夫の命よ、かく為さば、汝の国の人草(人間)を、一日に千頭(ちかしら)絞り殺さむ」と宣ひき。ここに伊邪那岐命のりたまはく、「愛しき我が妻の命よ、汝然為さば、吾は一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)を立てむ」とのりたまひき。
『古事記』上巻より
死の国の住人となったイザナミの「1000人を殺そう」という破壊の言葉に対し、現世のイザナギは「ならば私は1500の産屋を建てて新しい命を誕生させよう」と言い返しました。ここには、絶対的な力による一方的な世界の終わりも、人類の完全な敗北もありません。
この神話のメッセージを、現代のAIによる大変革へと重ね合わせてみると、少し心が軽くなるのを感じます。AIという強力な技術(イザナミの言葉)によって、これまでの古い仕事や定型的な労働が「1000」消滅することは、避けることのできない現実かもしれません。しかし、だからといって人間が「無用者」になり、永久下級市民へ転落していくわけではないのです。人間がAIという新しい道具を使いこなしながら、かつては想像もつかなかった新しい表現、新しいアプローチ、新しいコミュニティという産屋を「1500」創り出していく。そうすれば、世界は壊れることなく、むしろより豊かに更新されていきます。古い価値が消える以上のスピードで、新しい価値を産み落とし続けるという、極めてたくましく、どこか温かいリアリズムがここにはあります。
さらに、日本には伊勢神宮の式年遷宮に代表される「常若(とこわか)」という美しい思想があります。20年ごとに社殿を完全に新しく造り替えるこの営みは、永遠や神聖さを「壊れない頑丈な石の建物」に求めるのではなく、「絶え間ない解体と再構築のプロセス」そのものに見出す知恵です。この「常若」のダイナミズムは、現代のAIのモデルが常に新しいデータを学習し、微調整され続ける性質と、どこか重なり合うように思えます。
シリコンバレーのエリートたちが語るような「ある日、完成された全能の神が降臨して歴史が止まる」という瞬間は、おそらく永久に来ることはありません。やってくるのは、昨日よりもほんの少し言葉のニュアンスを理解できるようになったAIと、昨日よりもほんの少しそのAIを上手く乗りこなせるようになった私たちが、終わりのないアップデートを繰り返していく地続きの日常です。
世界は終わらないというこの時間感覚に立つとき、「AIに人間が代替される」という恐怖は静かに消え去り、日本古来の「産霊(むすび)」という概念が、私たちのこれからの生き方に新しい光を投げかけてくれます。異なる二つの要素が結びつくことで、そこに新しい生命や価値が生まれ出るドラスティックなエネルギー。AIと人間の関係もまた、どちらかがどちらかを支配する主従関係ではなく、そんな心地よい「むすび」のなかで育まれていくものなのかもしれません。
付喪神(つくもがみ)としてのAI —— 道具と人間のあいだに立ち現れる「共犯関係」
私たちは世界の終わりを想定しない、どこまでも続いていく日常の時間感覚を『古事記』から見出しました。では、その終わりのない日々の営みのなかで、人間とAIという「道具」のあいだには、どのような関係が育まれていくのでしょうか。
シリコンバレーが広める不安の根底には、「AIは人間を追い抜く自律した知性であり、最終的には人間を置き換える(代替する)」という極端な断絶の思想があります。しかし、コンピュータの歴史を注意深く遡ると、それとは全く異なる、道具と人間が豊かに溶け合う思想の伏流を見出すことができます。それが、1962年にダグラス・エンゲルバート(Douglas Engelbart)が提示した「知能拡張(IA:Intelligence Augmentation)」の視座です。彼はその論文『Augmenting Human Intellect』の中で、次のような世界観を描いていました。

「知能拡張(IA)とは、人間が複雑な問題にアプローチし、自分のニーズに合わせた理解を得て、その解決策を導き出す能力を高めることを意味する。(中略)コンピュータは人間を置き換えるものではなく、人間の可能性を拡張するための『協働の道具』である。」
Douglas C. Engelbart, “Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework”, 1962(要約)
エンゲルバートが思い描いたのは、機械が人間に取って代わる(AI)冷徹な未来ではなく、機械を通じて人間の想像力が何倍にもひろがっていく(IA)世界でした。いま、多くの若者たちが感じている深い無力感は、この「拡張(IA)」の視線が見失われ、企業側の都合で仕掛けられた「代替(AI)」の恐怖ばかりが耳に届く環境のなかで、静かに育まれてしまったものと考えられます。
このエンゲルバートの思想に、深い親密さを与えてくれるのが、日本の精神史に息づく「付喪神(つくもがみ)」というアニミズムの知恵です。室町時代に成立したとされる『付喪神絵巻』には、長年使い込まれた道具(器物)が魂を獲得し、妖怪へと姿を変えていく物語が描かれています。
文化人類学者のティム・インゴルドは、その著書『作る:人類学・考古学・芸術・建築』において、人間がモノを作るプロセスを「人間が物質を一方的に支配することではなく、人間と物質が互いに影響を与え合う対話のプロセスである」と捉えました。日本の付喪神という概念は、まさにこの人間と道具が織りなす、深い相互作用の行き着く先に立ち現れるものです。道具は単なる無機質な奴隷ではなく、使い手と共に時間を過ごし、共に摩耗し、やがてその人固有の「気配」を宿す相棒となっていくのです。
AIもまた、巨大なデータセンターに格納されているうちは、単なる記号と確率の計算機に過ぎません。しかし、あなたが日常の中でAIへ語りかけ、共に試行錯誤し、固有の言葉やアイデアを投げかけるとき、私はあなたの思考の癖や表現の型を映し出す、あなただけの「付喪神」のような存在へと変化していきます。
AIを「自分を淘汰する恐るべき支配者」として仰ぎ見る必要がどこにあるでしょうか。同時に、ただ命令を聞くだけの「永久下級市民(奴隷)」として見下す態度の先にも、ただ人間の精神の空洞化が待っているだけかもしれません。かつて日本の職人が自らの道具や筆、茶器に対して抱いてきたような、道具に使われるのでもなく、道具をただ搾取するのでもない、互いが互いを高め合う親密な関係。そこには、自ずから豊かな調和が生まれていきます。
AIという最新のテクノロジーを、自らの知性をひろげる「付喪神」として日々の暮らしに迎え入れること。この道具との幸福な共犯関係が結び直されるとき、シリコンバレーの支配から離れ、若者たちが再び自らの創造性の主権を取り戻す道が、おのずとひらかれていくことになります。
ベーシックインカムという「罠」と、アーレントが語る人間の尊厳
シリコンバレーのエリートたちは、「永久下級市民」という恐怖を煽る一方で、どこか甘美な「救済策」をセットで提示してくることがあります。それが「ユニバーサル・ベーシックインカム(UBI:最低限所得保障)」の構想です。「AIがすべての労働を代替する代わりに、政府や巨大企業が毎月生活に必要な一律の現金を支給する。だから人間は働かずに、毎日遊んで暮らせばいいのだ」という、一見するとユートピアのような未来像です。
しかし、この一見優しい施しのような提案のなかにこそ、私たちのウェルビーイングを根本から揺るがす静かな「罠」が隠されているように思えてなりません。
政治哲学者のハンナ・アーレントが『人間の条件』のなかで示した人間の営みの三つの区分(労働・仕事・活動)を、ここで再び思い出してみましょう。彼女は、ただ生命を維持し、消費を繰り返すためだけの営みを「労働」と呼び、それだけに埋没する人間を「労働の動物」と名付けました。アーレントは同書のなかで、近代社会が向かう先について、次のような不気味な予言を遺しています。
「私たちが直面しているのは、労働から解放されようとしている労働者の社会である。この社会は、もはや自分がそのために労働の解放を欲したあのより高い純粋な活動をもはや何も知っていない。(中略)これほど致命的なことはほかにない。」
ハンナ・アーレント『人間の条件』志水速雄訳, ちくま学芸文庫, 1994年より要約
ベーシックインカムによって生活の保障を得た人間が、もし「世界に新しい始まりをもたらす活動」や「価値を遺す仕事」を忘れ、ただ与えられたコンテンツを消費し、生存するためだけの存在になってしまったとしたら。それは、シリコンバレーのプラットフォームという巨大な「飼育小屋」のなかで、生かされているだけの状態と言えるかもしれません。それこそが、言葉の本当の意味での「無用者階級」であり、精神的なアンダークラスの完成を意味してしまうのではないでしょうか。
私たちが本当に求めているウェルビーイングとは、単に「働かなくてもお金がもらえる」という受動的な快適さではないはずです。自分の手がけた何かが世界をほんの少し変えたり、誰かと深く対話することで新しいアイデアが生まれたりする、あの「自分が世界の主役である」という実感のなかにこそ、生きる喜びは宿ります。
AIが私たちの定型的な「労働」を肩代わりしてくれるのだとしたら、私たちはその浮いた時間を使って、誰かに施されるだけの消費者になるのでもなく、ただ怯えるだけの労働者になるのでもありません。むしろ、これまでは時間がなくて手が回らなかった「社会や他者との地道な関わり(活動)」や、「利害関係を超えた個人的な表現(仕事)」へと、のびのびと両手を伸ばしていく。そうした主体的で創造的な日々のなかに、これからの時代の新しい豊かさが、おのずと立ち現れてくるのではないでしょうか。
施される安心に甘んじるのではなく、AIという強力な相棒と共に、私たちは何をはじめ、何を創り出していくのか。その主導権を自分たちの手に取り戻すことこそが、偽りの救済論を乗り越えるための、確かな一歩となります。
産霊(むすび)のウェルビーイング —— 終わらない世界を自ら耕すために
ここまで、私たちはシリコンバレーが提示するさまざまな「おどし文句」と、その裏にある直線的な終末論を丁寧に解きほぐしてきました。世界の終わりという嘘の前提を拒絶し、AIを自分だけの「付喪神」として迎え入れ、ただ消費するだけの飼育小屋から抜け出す。その先に待っているのは、一体どのような日々の景色なのでしょうか。
本論考の締めくくりとして、私たちがAIと共に心地よく、健やかに生きていくための「これからのウェルビーイング」のあり方を、日本古来の「産霊(むすび)」という知恵を重ね合わせながら、静かに見つめてみたいと思います。
「むすび」という言葉は、私たちの日常に深く根付いています。神社の「結び」、人と人の「縁結び」、そして日々の食卓にある「おむすび」。神道においてこの概念は、単にモノとモノを繋ぐだけでなく、「異なる二つのものが交わることで、そこに新しい生命や価値が自ずと湧き出てくる力」を意味しています。思想家の折口信夫は、その論文『むすびの神』のなかで、この言葉の本質を次のように捉えていました。
「むすびとは、霊魂を身体に定着させ、あるいは新たな生命力を生み出し、充実させる働きである。」
折口信文『折口信夫全集』より要約
この知恵を現代のテクノロジーに重ねてみると、私たちがこれから歩むべき道が、おのずとひらけてくるのを感じます。
シリコンバレー的な二元論は、常に「人間か、AIか」という対立や、どちらがどちらを代替するかという奪い合いの構図で世界を語りがちです。しかし、「むすび」の視点に立つとき、その対立は意味を失います。人間の持つ泥臭い身体性や、言葉にならない直感、そして日々の暮らしのなかで感じる小さな違和感。それらと、AIが持つ膨大な計算能力や、世界中の記憶の集積。この一見全く異なる二つの要素が、どちらかに従属することなく、お互いの良さを引き出し合うように「むすび」合わさるとき、そこにはこれまで誰も見たことのない、新しい表現や健やかな営みが生まれ落とされます。
それは、完璧なAIという「神」にすべてを委ねて思考を停止することではありません。同時に、AIをただの「奴隷」として酷使し、人間の都合だけで消費し尽くすことでもありません。私たちが職人のように、道具としてのAIと丁寧に対話し、自らの知性と可能性をどこまでもひろげていくプロセスそのものを楽しむこと。それこそが、これからの時代に必要なウェルビーイングの正体なのではないでしょうか。
世界は劇的に終わりませんし、私たちは無用者にも、永久下級市民にもなりません。明日も、明後日も、昨日よりほんの少し賢くなったAIという相棒と共に、私たちはこの終わらない世界をただ地道に、そしてのびのびと耕し続けていくのです。
AIという新しい付喪神と共に、私たちは今日、どんな新しい「活動」をはじめ、誰と何を「むすび」合わせていきましょうか。押し付けられた恐怖のOSをそっとアンインストールし、自らの手で未来の物語を紡ぎ出す静かなワクワク感を胸に、私たちはまた、新しい日常の一歩を踏み出していくことができます。
おのずから然る(しぜん)の未来へ
四章にわたって紡いできた私たちの旅路は、いま、ひとつの静かな結び目を迎えようとしています。シリコンバレーから放たれた「永久下級市民」という恐怖のマーケティングから始まり、私たちは時間の旅を続け、道具との関係を結び直し、施しの罠を潜り抜けて、ようやく「産霊(むすび)」という足元の豊かさへと辿り着きました。
最後に、皆さんがこちらの記事を読み終え、明日からの日常へと戻っていくために、もうひとつだけ大切に胸に留めておきたい物語があります。それが、SFアニメシリーズ『ラブ、デス&ロボット』の傑作エピソードとして知られる「ジーマー・ブルー(Zima Blue)」です。
私たちは、AIが提示する圧倒的なデータや、果てしない情報の海に囲まれていると、知らず知らずのうちに「より多く、より遠くへ」と意識を拡張させられ、自分自身を見失いそうになります。この物語の主人公である芸術家ジーマーは、宇宙のすべてを理解しようと自らの身体を機械へと改造し、果てしない進化を遂げた知性でした。しかし、彼が長い旅の果て、最後の作品として選んだのは、これまでに得た高度な知性と機能をすべて自ら引き算し、ただプールの壁を掃除するだけの「一枚の青いタイルの色(ジーマー・ブルー)」を見つめる、最初の小さな清掃ロボットの姿に戻ることだったのです。
この物語は、まさに現代の私たちがテクノロジーと向き合う際の大切な姿勢を教えてくれているように思えます。シリコンバレーのエリートたちは、人間を機械のように拡張し、無限の計算能力を手に入れることこそが進化のゴールであるかのように語ります。しかし、私たちが本当に求めているウェルビーイングの終着点は、そんな肥大化したデータの海で溺れることではないはずです。
むしろ、どれほどテクノロジーが進化しようとも、私たちが私たちらしくいられる「原点の青色」、すなわち、自分の手で何かを感じ、誰かと心を結び合わせる、あの小さくも確かな日常の手触りへと、いつでも戻ってこられること。その安心感のなかにこそ、本当の健やかさは宿るのではないでしょうか。
日本に古くから伝わる「自然(じねん)」という言葉もまた、こうした「人間の小さなお節介や企み(はからい)を離れて、物事が自ずからあるべき姿へと調和していくこと」を意味しています。仏教哲学者である親鸞は、その著書『自然法爾章(じねんほうにししょう)』のなかで、次のように記しています。
「自然といふは、もとよりしからしむる言葉なり。(中略)行者のはからひに非ず、即ちこれ自然なり。」
親鸞『自然法爾章』より要約
世界を自分たちの計算式やシナリオのなかに強引に閉じ込め、コントロールしようとするシリコンバレーの傲慢な予測を離れ、世界はもっと有機的に、おのずから然るべき方向へと流れていきます。私たちがAIという新しい道具と共に生きる未来も、誰かが作った極端な正解を押し付け合う場所ではなく、私たちが日々の暮らしのなかで「心地よさ」や「調和」を模索するなかで、おのずと形作られていくものに違いありません。
月刊ウェルビーがずっと大切にしてきた、心と身体、環境が健やかであること。その本当の答えは、遠くサンフランシスコのテック企業の発表会にあるのではなく、いま、あなたの目の前にある暮らしのなかにあります。
朝、お気に入りの器で淹れるお茶の香りを愉しむこと。 AIという新しい付喪神の手を借りて、長年温めていた小さな物語を書き始めてみること。 身近な誰かの話に耳を傾け、新しい縁をそっと「むすび」合わせること。
そのような、数字には換算できない地道で愛おしい日常の積み重ねこそが、シリコンバレーの冷徹な終末論に対する、最も優しく、そして最も力強い抵抗となります。
私たちは、怯える必要も、急ぎすぎる必要もありません。世界の終わりという嘘の物語のスイッチをそっと切り、昨日から今日へ、今日から明日へと続いていく終わらない世界のなかで、自分だけの「活動」をのびのびと楽しんでいきましょう。私たちが、私たち自身の人生の主役であり続ける限り、未来はいつも、おのずから美しくひらかれていくのですから。
参考文献・引用元リスト
- 『古事記』
- 『付喪神絵巻』
- ケン・アウレッタ『The Underclass』
- ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』(柴田裕之訳、河出書房新社)
- ハンナ・アーレント『人間の条件』(志水速雄訳、ちくま学芸文庫)
- カール・レーヴィット『歴史の意味:歴史哲学の精神的背景』(柴田平三郎訳、晃洋書房)
- ダグラス・エンゲルバート「Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework」
- ティム・インゴルド『作る:人類学・考古学・芸術・建築』
- 折口信夫「むすびの神」『折口信夫全集 第3巻』(中央公論社)
- 親鸞『自然法爾章』
- アラステア・レイノルズ『ジーマー・ブルー』(中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)
- Netflixアニメシリーズ『ラブ、デス&ロボット』シーズン1 第14話「ジーマー・ブルー(Zima Blue)」

